三歳でパパを亡くしたわたしの人生は、向かいのおばさんが言うように確かに幸福なスタートとは言いがたいけれど、でも決して不幸ってだけじゃなかった。
パパが愛してくれた思い出は短い時間の中でもたくさんあって、それはいつでもわたしの胸を暖めるし、ママはわたしをパパの分まで愛してくれている。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんたちも、わたしが遊びに行くととても嬉しそうな顔をしてくれる。
そして。

ロイがいる。
ロイはいつもパリッとした軍服を着ている将軍で、いつでも部下の人たちに囲まれて忙しそうにしている。パパの親友だった人。たまに学校の帰り道なんかに街で見かけるお仕事中のロイは厳しい顔をして軍の人たちとお話をしているけれど、わたしに気付くとすぐに穏やかな目に変わる。きっと、パパがそうだったみたいに。
まだほんの子どもだったわたしを膝に乗せて、髪を撫でてくれるロイが大好きだった。
いつでも優しくて、いつでも素敵なプレゼントを持ってきてくれて、いつでもまるでお姫さまみたいにエスコートしてくれる。

ロイは、小さい頃からわたしの王子さまなのだ。




ラ ヴィ アン ローズ







出発のときは厚く曇に覆われていた空も、セントラルステーションを出て1時間ほど汽車に揺られただけでうそみたいにすっかり晴れ渡っていた。
遠くまで続くなだらかな丘。ところどころで草を食んでいる羊が、まるで地上の雲みたいだ。緑の野原に野生の花がたくさん咲いていて、明るい黄色が時折景色と一緒に流れていく。太陽の光が反射して、あちこちきらきらして眩しい。
「エリシア、ほら、食べるかい?」
セントラルしか知らないわたしは、こんな景色は写真でしかみたことがない。何もかもが物珍しくて窓と向かい合うほどに見入っていると、隣からマドレーヌの包みが差し出された。
「うん、ありがとう、ロイ」
勢いよく向き直ると、ロイは少し笑った。笑われているというのにそれでも嬉しくなって、わたしはもらったマドレーヌの包みをさっそく開ける。朝早くにセントラルを出てきたから、実をいうと少しお腹も空いていたのだ。
「今からあんまり食いすぎんなよ、エリシア。着いたらご馳走だからな」
向かいの席からそう言って、エドお兄ちゃんが紅茶の入ったカップを渡してくれた。通路の向こうでリザさんがポットから入れてくれたその香りは、わたしの浮き立つ気分をますます押し上げる。
「あんたも、何そんなに菓子持ち込んでんだよ。遠足かっての」
「君も食べるといい。ほら」
いらねぇよ。そう言ってエドお兄ちゃんは顔を顰めた。
確かにロイが今覗き込んでいる紙袋は大きくて、そこがお菓子でいっぱいなのだとしたらきっとすごい量だ。誰が買ったのかしら。まさかロイじゃないだろうけど、本当にまるっきり遠足みたい。ママが昨日作ったアップルパイが明日までに入るお腹の余裕はあるかしら。こっそりママを伺うと、通路の向こうの席でリザさんと楽しそうにおしゃべりしていて、そんな心配は全然していないみたいだった。
少しだけ開いている窓から緑の匂いのする風が入ってくる。一つに括ったエドお兄ちゃんの長い髪が流されて、お日様の光に反射して少しだけ眩しい。長い足を折り曲げて座るお兄ちゃんは窮屈そうで、身体が大きくなるとこういう時大変だな、と少し気の毒に思う。
みんなに「成長したなぁ」と言われるのを、いつもお兄ちゃんは苦笑いみたいな顔をして聞いている。わたしはあんまりわからなかったけれど、お兄ちゃんは昔は背が低かったのを気にしていたみたい。今ではロイよりも大きいのにうそみたいだ。
エドお兄ちゃんが軍服を着ている姿は、ロイとおんなじなのに何だか感じが違って見える。初めて見たときのびっくりした思い出が残ってるせいかもしれない。もう随分見慣れたはずなのに。
逆に、ロイは全然変わらない。本棚の中に紛れていたパパとロイが一緒に写っている学生時代の写真から考えれば、そりゃ少しは変わってると言えなくもないけれど、それでも軍服姿の写真を見るといつも今のロイとおんなじだと思ってしまう。
甘いマドレーヌを頬張っていると、ロイが隣からエドお兄ちゃんに話かけた。
「君だけでも先に行けばよかったのに。アルフォンスたちも待っているだろう」
「あんたの護衛が俺の仕事なのに、一人で先に行けっかよ」
「こんな田舎で危険なことなどあるまい」
「田舎で悪かったな」
いつでも喧嘩みたいな二人の会話を聞きながら、笑い出してしまいそうな口元をこっそりカップで隠す。
こんなふうに大好きな人たちと一緒にいるのは、ただ汽車に乗っているだけでも楽しい。忙しいロイたちとは滅多に会えないだけに、こんな時間はとても貴重だ。しかも今回のは、ただの旅ではないのだ。
「俺はこの距離を何度も通わされて、式の準備だなんだの散々あいつらにこき使われて、もういい加減ゲスト扱いされてもいい頃だ」
「結婚式の主役の身内などそんなものだ」
アルフォンスお兄ちゃんとウィンリィお姉ちゃんの結婚式。
それを電話で聞いた時にはびっくりして思わず大きな声を上げてしまったけれど、大好きな二人が結婚するというのが、しかもその式に呼ばれたのが嬉しくて押さえ切れなかったのだ。
それに出席するために、こうしてみんなでリゼンブールに向かう。
そんなわくわくする出来事が待っていたのだから、やっぱりわたしの人生はかなりツイていると思う。
リザさんたち、護衛だというエドお兄ちゃん。と、みんなをひっくるめてその護衛の人たち。たとえたくさんの軍服の人たちに囲まれて、ほんの少しばかり窮屈な感じはしても。
「どうした? 疲れたかい、エリシア」
「ううん。大丈夫」
「この車両は貸し切ってるから、いつでも空いてる席に移って身体を伸ばすといい」
それともわたしが向こうに行こうか? と、立ち上がろうとするロイに慌てて首を振る。
確かに他の席はガラガラで、通路の向かいにママとリザさん、その後ろにロイの部下の、パパが一緒に写っていた写真で見たことのある人たち、あとは知らない護衛の人たちが3人、このボックスに、わたしとロイとエドお兄ちゃん、他はすべて空席でどこでも座り放題だ。
でもバラバラに座ったって面白くもなんともない。ロイはたくさんの女性にモテるくせに、そんなところ、少しだけ女心が判ってないと思う。ロイとエドお兄ちゃんと一緒にこの景色を眺めたほうが何倍も楽しいに決まってる。
「本当は一等のコンパートメントを取る予定だったのだが…」
「リゼンブール行きで、んな上等なモンねぇんだよ」
「おかげで貸し切るのに軍の権力を出さねばならず、必然的に軍服着用だ」
まったく、長旅なのに目立ってしょうがない。
ロイは苦い顔でそう言うけれど、わたしはむしろロイがこの青い服を着ていない方が不思議な感じがするので、何も言わなかった。
わたしがロイを名前で呼ぶ呼び方は、小さい頃、パパから移ったものだ。パパがそう呼び響きは、優しい思い出と同じにわたしの中に残っている。
パパのお友達で、年上で、大人で、軍の偉い人なのだから、きちんと「ロイさん」と呼びなさいとママは言う。特にこんなふうに、軍の人たちと一緒にいるときには。
けれどそんなママにロイは笑って、構わないよ、グレイシアと、駆け寄ったわたしを抱き上げた。
――エリシアにそんなふうに他人行儀に呼ばれると寂しくなるじゃないか。
そう言って。
――エリシアの目は、君のパパにそっくりだ。
笑ったロイがほんの少しだけ遠くを見てるみたいなのは気になったけれど、それでも、パパのことがきっと大好きだったロイをもっと好きになったし、わたしはますますパパの子どもでいることが誇らしかった。
わたしはロイがもっと偉くなっても、たとえ大総統になったとしても、ロイをそう呼ぶだろう。ロイもきっとそれを許してくれる。
それに。
エドお兄ちゃんだって、こんなときでもロイのことを「マスタング少将」なんて呼ばない。お仕事してるときは知らないけれど、階級が上のはずのロイに丁寧な言葉だって使ってない。丁寧どころか、いつでも喧嘩してるみたい。
一度リザさんに、ロイとエドお兄ちゃんは仲が悪いの? と聞いたことがある。リザさんは珍しく吹き出すみたいに笑って、仲が良いからこそ喧嘩するのよ、と言っていたけれど。
今だって。
「何度もこの長旅をさせられた俺の苦労が判っていただければ光栄ですね!」
「何だ? 先に弟に結婚されるからひがんでいるのか?」
「はぁ? 違ぇよ!」
「では今日も花婿の兄らしく、せいぜい彼らのために働きたまえ」
「…ったく」
でも、こんなふうに言ってても他の席に行かないエドお兄ちゃんは、ほんとにロイと仲良しなのかもしれない。
理由をわたしはよく知らないけれどアルお兄ちゃんは昔、今みたいな普通の姿をしていなかった。エドお兄ちゃんはそれを治すために国家錬金術師になって、アルお兄ちゃんが元に戻ってからも軍にいるのはロイのそばで働くためだって聞いたことがある。
そのわりに喧嘩ばっかりなのが本当に不思議だけど。
大人は不思議なことが多い。
だけど、横を見上げるとロイが楽しそうにしていて、エドお兄ちゃんも笑っていて。
そんな二人を見ていてわたしもまた嬉しくなって、弾けるみたいなその気持ちを落ち着けるために暖かいミルクティをゆっくり飲み込んだ。







その日は本当にいいお天気だった。
穏やかな日差しが朝からきらきら輝いていて、パーティ会場のお庭をさらりと吹き抜ける乾いた風も心地よくて。
野の花が一面に広がる丘や木漏れ日の溢れるリゼンブールは何もかもがとても綺麗に見えたのだけれど、この日のウィンリィお姉ちゃんにはそれよりも、誰よりも綺麗だった。
ママが作った白いブーケもお姉ちゃんによく似合っていたし、お揃いのブートニアをつけたアルお兄ちゃんもすごくかっこよかった。
町で一番大きいというレストランのお庭は小さなお花とピンクのバラで飾り付けられ、シャンパンを開ける音とクラッカーの音が次々に鳴り響く。町の人たちも大勢やって来て二人にお祝いを言って、明るい音楽が奏でられて、出されたご馳走はすごく美味しくて、おまけにデザートはわたしの大好きなベリーのトライフルで。
アルお兄ちゃんのスピーチはママを涙ぐませたし、ロイもすごく優しい顔をして二人を眺めていた。普段きりっとしているリザさんでさえ、何度も何度も柔らかい笑顔を見せて。
エドお兄ちゃんは時々、泣くのを堪えてるみたいな顔をしていた。ロイがそれに気付いたのをわたしは見ていたけれど、その時はいつもみたいにエドお兄ちゃんをからかったりせずに、静かに微笑んだだけだった。
わたしの大好きな、あの優しい目をして。
パパもきっと天国から見ていて、一緒に楽しんでいるに違いない。
そう思って、わたしも本当に幸せな気分になった。





その夜はなかなか寝付けなかった。
昔ウィンリィお姉ちゃんのお部屋だったという寝室は、とても居心地がいいというのに。
まだ興奮しているのかもしれなかった。昼間の、夢みたいな時間を思い出して寝返りを打つ。
ママはもうすっかり眠っているみたいで、聞こえてくるのは静かな寝息だけ。わたしがベッドの上でごそごそと身じろいでも何の反応もない。
何だか喉が乾いて、お水をもらおうと起き上がった。やっぱり少し食べ過ぎたのかもしれない。お昼に始まったパーティは夜まで続いて、その間ずっとしゃべっているか食べるかしかしていないのだから。
室内履きに足を突っ込んでこっそりとドアを開けると、夜になって少し冷え込んできた空気に首を竦める。
階段を半分くらい下りると、下ではまだ誰か起きているみたいで、居間から細く明かりが零れていた。
誰だろう。
セントラルから一緒に来た護衛の人たちは、町のホテルに泊まっている。わたしたちも始めはホテルに泊まる予定だったのだけれど、二人に是非にと言われてお家にお邪魔することになったのだ。
―――あとは頼んだよ、兄さん。
エドお兄ちゃんが何か言う間もなく、
―――そうよ、エド。みなさんをちゃんとおもてなししてちょうだいね。
二人はそう言って、疲れきった顔でふらふらしながら部屋に入ってしまったから、起きているのはロイたちかしら。
見つかっても叱られやしないだろうけど、何となくわたしは音を立てないよう注意してキッチンに向かった。
そこへ行くには、明かりが漏れるドアの前を通らなきゃならない。覗き見なんてお行儀が悪い。ママにばれたらまた叱られそうなことを承知で、それでもわたしはつい顔を向けずにはいられなかった。
そこには、やはりロイとエドお兄ちゃんがいた。
でも、ロイは眠っているみたいでソファに横になっていた。その向かいで、エドお兄ちゃんはテーブルに散らかっているグラスを片付けている。足元には3本くらい転がっている瓶。
二人とも、パーティでもあんなにたくさんお酒を飲んでいたのに。
忙しいロイたちは、明日にはもうセントラルへ帰る。
明日の出発は早いのに大丈夫なのかしら。
声をかけてみようかな、そう思って一歩踏み出した足はそこで止まってしまった。
不意にエドお兄ちゃんが少し掠れた静かな声で、「ロイ」と呼んだのが耳に入ってきて。
なぜか、どきりとする。
お兄ちゃんが、ロイをそんなふうに呼ぶのを始めて聞いた。
名前で呼ぶのを聞いたのももちろん初めてだったけれど、それだけではない、何か上手く言葉に言い表せない気持ちがそこに篭っているみたいに感じられて、思わず心臓の鼓動が早くなる。
嬉しそうな。
哀しそうな。
壊れやすい大切なものを扱うような。
呼ばれたロイは目覚めない。すっかり寝入っている。
もしもロイの敵がやってきても今なら絶対大丈夫だと、安心しきってるみたいに。
そこにはわたしの知らない大人の空気が漂っていて、なぜかどきどきが治まらなかった。
エドお兄ちゃんも昔は子どもだったのに、いつからそこに加わってたんだろう。
不意に浮かんだ疑問も、わたしの早い心臓の音にかき消されて上手く答えが探せない。
エドお兄ちゃんは口元だけで小さく笑って、静かに立ち上がった。
もう一度、ロイ、とさらに潜めた声で呼びかける。
横になっているロイにゆっくりと屈んで、黒い前髪をそっと払ったのが分った。
そして、ほんの一瞬だけ。
その額に口付けた。
ロイを起こしてしまわないよう静かに離れて。
エドお兄ちゃんは溜息みたいな息を一つ、ひっそりと吐いた。
その顔は、酔っ払ってるふうにも見えなかった。それどころか、何か苦しいことでもあるのかしらと心配になるほどだったのに。
同時に、ひどく幸せそうにも見えた。
アルお兄ちゃんやウィンリィお姉ちゃんみたいに。

心臓の音がうるさい。このままではエドお兄ちゃんに聞こえてしまうんじゃないかしら。
早鐘のようなそれを抱えながら、わたしはその場を離れてゆっくりと階段を登った。
やっと落ち着いてきた心臓の音にほっとして、そっとベッドに入る。
少し冷えた足に、毛足の長い毛布の感触が暖かい。
天井を眺めていると、どきどきが治まったのが分かった。
暖かさに眠くなってきた眼を擦ると、さっきのエドお兄ちゃんの顔を思い出した。
大人は不思議だ。
いつも喧嘩ばっかりしてるみたいなのに。
パパならその不思議が分かるかしら。大人で、ロイのことなら何でも知ってるパパならきっと分かるに違いない。
わたしもそのうち分かるようになるかしら。


三歳でパパを亡くしたわたしの人生は、向かいのおばさんが言うように、確かに幸福なスタートとは言えないかもしれない。
でも、二人の間を流れる空気がひどく穏やかで安定しているみたいに見えて、それに安心できるのは。
わたしの人生が不幸なだけじゃない証拠のような気がして、笑って目を閉じた。

なぜか、置いてきぼりにされたような、寂しい気持ちも少しだけしたけれど。








end










エドの軍服姿ってビジュアル的にけっこー萌えなんすよね。
そんなわけで。
さらに、激しく、捏造。
笑って許していただけると本当に嬉しいです…。

突如ラブなエドロイに欠乏し、気がついたらこんなことに。
でも第三者の視点からじゃないとラブにならんってどーゆーことだ。
女の子だし、もうちょっと大人っぽい感じにしたかったんだけどなー。
ってか、君の王子さまはえらい年上だなー、エリシア。

いや、好きです、エリロイ。
エリシアがエドに宣戦布告するくらいなのもいい。
エリシアは最強なので、それはそれで面白いことになりそうでいい。